『雪解けの朝』


「ずいぶん冷えちゃったね」
 肩に降り積もった雪を払い落として、毛の濡れたアニーをタオ
ルで拭きながら浅倉はそう言った。暖房は散歩に出る時に切っ
ていたので、室温も少し下がってしまったようだ。
「伊藤くん、濡れたでしょ?お風呂使う?」
「え、俺より大ちゃんの方が冷えてるでしょ?」
 公園で抱き締めた時、触れた体は服越しにも分かるほど冷た
かった。こんなにも1人きりにさせたのかと後悔した。
「大ちゃんこそお風呂入ってきなよ。なんなら一緒に入ってもい
 いけど」
 あはは、と笑いながら言うと浅倉は黙り込んだ。真っ赤になっ
て怒るかと思っていたのだが、沈黙されて伊藤は戸惑う。もしか
して本気で機嫌を損ねてしまったのだろうか?せっかく仲直りし
たばかりなのに、これでは元も子もない。
「大ちゃん……?」
「……いいよ」
「は?」
 言葉の意味を計りかねて首を傾げると、浅倉はアニーをリビン
グに残して伊藤の腕を引いた。
「どうしたの?」
「お風呂。一緒に入るんでしょ?」
「えっ?」
 意外な展開で伊藤は目を丸くする。まさか彼がそんなことを言
い出すとは思ってもみなかった。
「でもっ」
 浅倉は頬を染めて伊藤を見上げた。
「お風呂でするのはだめだからね!入るだけ!触るのもだめっ」
「それってすげぇ拷問なんですけど……」
 一緒にお風呂に入るのに手を出せないのは苦行と言ってもい
いだろう。伊藤は嬉しいような嬉しくないような、複雑な気分に
なりながら浅倉とバスルームへ足を向けたのだった。互いに服
を脱がせあって、時々悪戯しようとする伊藤の手を浅倉がぺしっ
と叩きながら2人で中に入る。浅倉が丁寧に体を洗っている間、
伊藤は浴槽に浸かってその様子を眺める。
「なんだよ?」
 じっと見つめる伊藤に浅倉は眉をひそめた。
「いや、なんか新鮮だからさ」
「なにが」
「大ちゃんが体洗ってるとこ、初めて見るんだよね。ほら、一緒
 に入った時は俺が洗ってあげてるでしょ?」
「言うな、バカ!」
 真っ赤になって浅倉は伊藤にお湯をかける。時々一緒にバス
ルームに入ると、伊藤は嫌がる浅倉を無視して髪や全身を甲斐
甲斐しく洗う。そして毎回その洗う手は次第に滑らかな愛撫に
変わるのだ。それを思い出して浅倉が頬を染めるのも無理はな
い。
「なにニヤニヤしてんだよ!ドスケベ!」
「ドまで付けるんですか?」
「うるさいっ。はい、交代!早く出てよ!」
 浅倉は伊藤を浴槽から追い出すと、自分が中に浸かる。
「お背中流しましょうか?とか言ってくれないの?」
「言いません」
「……なんのために一緒に入ってるのかわかんないじゃん」
「お風呂はあったまるために入るの!」
 むうっとしかめっ面をする浅倉に伊藤はひょいと肩をすくめて、
それ以上は何も言わずにおとなしく体を洗い始めた。自分に背
中を向けて髪を洗う伊藤に、あぁ確かに新鮮かも、と浅倉は思っ
た。同じ夜を過ごしても、彼の背中をちゃんと見たことがないか
らだ。自分とは違う、広い背中。その広さは、ふと気づけばいろ
んなことから守ってくれている。さりげなく、でも確かにいつも傍
にある。さっきのように、心が淋しさに潰れそうになる前に必ず
来てくれる。彼の背中の広さは、そのまま心の広さだ。
「大ちゃん?」
 ぼんやりと自分の思考に陥っていた浅倉は、突然目の前に現
れた伊藤の顔すら現実と認識できずにいた。ただぼんやりと、
常に傍にいてくれる彼を、好きだなあ、と思っていた。そしてその
思いのまま、浅倉は目の前の彼にそっと口づけていた。触るなと
言っていた浅倉からの突然のキスに伊藤は戸惑ったが、緩やか
に瞳を閉じて幼いキスをする彼がとても愛しかった。キスを繰り返
すうちに自然と互いの唇が深く重なり合う。そして伊藤がその舌
を絡めとった時。
「うわあっ」
 いきなり浅倉が叫んで伊藤から離れた。
「なっ、何?どうしたの?」
 驚いて伊藤が問うと、浅倉は頬を染めて伊藤を睨みつけた。
「なにやってんだよっ。触っちゃだめって言ったでしょ!」
「ええっ、俺!?」
 仕掛けてきたのは浅倉なのに、そんなふうに言われたのでは
たまらない。しかしぼんやりとしていた浅倉にはキスの自覚はな
い。気づけば目の前に伊藤がいて、あろうことか舌が咥内に忍
びこんでいたのだ。
「もう、伊藤くんサイテー!今夜は1人で寝ろ、バカ!」
 理不尽な怒りをぶつけられて呆然としていた伊藤だが、浅倉が
浴槽を出てバスルームのドアに手をかけるのを見てその体を背
後から抱き寄せた。
「言っておくけど、最初にキスしたのは大ちゃんだよ?」
 低く囁いて、そっと耳たぶを噛んでやると浅倉は大きく首を振っ
て逃れようとした。
「もう、だめだってば!」
 どんなに暴れても力で伊藤にかなうはずもない。逆にますます
深く胸の中に抱きこまれてしまう。頬に口づけられて身が竦む。
「ここじゃ、やだってば……」
 体を這う手に身を捩りながら浅倉は訴えた。しかしそんな可愛
い抵抗さえ欲情を煽るだけだと彼は知らない。
「たまにはいいんじゃない?」
 伊藤はくすりと笑って浅倉の下肢に手を伸ばした。次第に熱く
なっていくそこを柔らかく握りしめながら頬に肩口にキスを落とし
ていく。
「や……っ、あ……」
 小さな喘ぎも狭いバスルームでは艶やかに響く。聴覚を刺激
して、伊藤は自分もまた熱くなっていくのを感じた。
「大ちゃん、ごめん。我慢できそうにない」
 そう言うと浅倉の両手を片手でまとめ上げると、バスルームの
壁に押し付けた。そして髪や頬にキスをしながらもう片方の手で
自分を受け入れてくれる箇所を指で押し開いた。
「無理、だよ……っ」
 立ったまま指で犯されていることに羞恥と緊張で体が堅くなる。
しかし伊藤は唇で愛撫をしながらその行為を続ける。内壁をなぞ
り、確実に反応する場所を攻める。
「少しだけ、痛いかも」
 伊藤はそう言って指を引き抜くと、白い内股に手を置いて少し
押し上げた。そして熱くなった自分を、指で慣らした箇所にあて
がい、彼の腰を強く抱き寄せる。小さな悲鳴をあげて、束縛され
た手がびくっと震える。
「大ちゃん……」
 伊藤は片腕で浅倉の腰を抱き、耳たぶを軽く噛んだ。
「痛い……?」
 熱い息と共に聞くと、浅倉は小さく首を振った。
「手、離して……」
 震える訴えに伊藤はゆっくりと束縛していた手を解いた。浅倉
は自由になった腕で伊藤にすがりつくと、その肩に額を押しつけ
た。
「ボクは、だい、じょうぶ……」
 その言葉に伊藤は優しくキスを落とすとさらに強く腰を寄せ、深
く繋がるために腕で浅倉の片腿を抱き上げる。快楽と苦痛の狭
間で喘ぐ浅倉に腰を打ち付ける。
「好きだよ……大ちゃん……」
 熱い告白に浅倉はゆるりと瞼を開けた。荒々しい行為とは違っ
て、自分を見つめる目はどこまでも優しい。いつでも見つめてくれ
るその目に浅倉は思った。好きだ、と。
「ごめ、んね……」
 突然の謝罪に伊藤は動きを止めた。
「……何が?」
「嫌い、て、言ったから……」
 その言葉に浅倉が未だ先刻のことを引きずっていることに気づ
く。伊藤は柔らかく微笑んでゆっくりと首を振ると、その額にキス
をした。
「もういいよ。仲直り、したでしょ?」
 浅倉はそう言う伊藤に小さく頷くと、彼の耳元に唇を寄せた。
「伊藤くんが、すごく、好き……」
 浅倉の小さなささやきに、伊藤は例えようのない愛しさと幸せ
を感じた。
「分かってるよ……」
 そう言って、伊藤は再び深く彼の中に入り込んだ。互いの荒
い息遣いと嬌声が、音を吸収しない壁にぶつかって室内に響
き渡る。繋がる体と、重なる想いに全てを委ねる。
「大ちゃん……」
 切迫した声色に浅倉も頷く。2人で額を重ねて、呼吸を合わ
せる。時を置かずに訪れる大きな快楽の波。体をしなやかに
仰け反らせた後、浅倉は壁伝いにずるずるとタイルに沈み込
んだ。伊藤はその体を慌てて抱き起こしながら優しく抱き締め
た。
「ごめん、大丈夫?」
「……なわけないだろ……」
 立ったまま貫かれ続けた浅倉は力の入らない体を伊藤の胸
に預けた。
「も、だめ……全然動かない……」
 そう言ったきり意識を手離した浅倉に伊藤はゆっくりとキスを
した。そして大きなバスタオルで彼の体を包み、寝室へと運ぶ。
パジャマを着せ、髪の濡れたまま彼が風邪をひかないようにと
暖房を上げる。
「あ」
 少し開いていた重いカーテンを閉じようと窓際に寄った伊藤は
ガラス越しに薄く積もった雪に気づいた。嫌い、とお互いに口に
して、もやもやした気持ちのまま車を走らせていた時に降り出し
た雪。彼が、彼の心が凍えてしまうような気がして、慌てて引き
返した。アニーと一緒にいなくなっていた浅倉を探していると、公
園の片隅で小さくなっているのが見えて、彼を置いて出てしまっ
たことを後悔した。もう少し遅れていたら、本当に彼は凍えていた
かもしれない。
「俺も、ごめんね」
 そう囁いて額にキスをすると、浅倉は小さく寝返りをうった。伊
藤は微かに笑みを浮かべて、その横に身を横たえた。明日は綺
麗に晴れているといい。


 翌日、朝と呼ぶには遅い時間に浅倉はゆっくりと覚醒した。い
つパジャマを着たのか、いつベッドに入ったのか分からない浅
倉は、自分が失神するように眠った事実に頬を染める。
「伊藤くんが悪いんだから……」
 傍で穏やかに眠る伊藤にそう言って、浅倉はゆっくりとベッド
から降りた。カーテンを少しだけ開いてみると、外はまぶしいほ
どの光に満ちていた。ベランダの手すりからぽたぽたと落ちる
雫が、雪解けの朝を知らせている。もしもあの時伊藤が戻って
くれなかったら、自分の心は凍りついたままだったかもしれない。
暖かく照らしてくれるのは、彼の優しさ。
「ボクって、ホント、バカ」
 どうして嫌いなんて言葉が言えたんだろう。こんなにも好きな
のに。嫌い、なんて言葉は冷たいだけ。もう2度と寒さに震えた
くはない。だから、もう2度とそんな言葉は口にしないと誓う。
「ありがとう」
 許してくれて。傍にいてくれて。


 雪解けの朝は、綺麗に晴れ渡る空に輝いていた。









                 







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